Yogiboカームダウンルーム

見えない困りごとに、そっと寄り添う場所を—大阪・関西万博カームダウンルーム「一坪のハグ」誕生の舞台裏

2025年大阪・関西万博では、誰もが安心して過ごせる会場づくりの一環として、会場内に8箇所の「カームダウン・クールダウンルーム」が設置されました。音や光、人混みなどの刺激に敏感な来場者が、自分のペースで心を落ち着けられるように配慮された空間です。見えにくい困りごとへのやさしい配慮として、国内外からも注目を集めています。

この8つのうちの1箇所(休憩所③ 静けさの森応急手当所)を、株式会社Yogiboが提供いたしました。プロジェクトの初期段階から、ニューロンや腸内細菌叢の多様性、感覚過敏や自閉症、障がいなどの当事者や専門家と共に対話を重ね、ゼロから共にコンセプトを共創してきた空間です。

本記事では、「一坪のハグ」検討委員としてその対話をリードされたユニバーサルデザインコンサルタント・橋口亜希子さんにお話を伺いました。
自身の息子さんの子育てを通じて、発達障害と向き合ってきた橋口さん。そこから見えてきた社会の課題と、カームダウン・クールダウンルームに込めた想いとは――。


検討委員:橋口亜希子/キャリアコンサルタント(株式会社Bridges to Inclusion 代表取締役 ユニバーサルデザインコンサルタント)
聞き手:中川(NPO法人チュラキューブ 代表理事/大阪国際工科専門職大学 工科学部 准教授)


発達障害のある息子と歩んだ24年:万博での「カームダウン・クールダウンルーム」に至るまで

カームダウン・クールダウンルーム

株式会社Yogibo提供のカームダウン・クールダウンルーム

まず、橋口さんがこういった活動に関わるようになった背景や、発達障害との出会いについてお聞かせいただけますでしょうか。

私の活動のきっかけは、24年前に息子が発達障害と診断されたことです。当時は、精神科の先生も学校の先生も、発達障害という言葉自体をほとんど知らないような時代でした。息子は小学1年生の時に診断を受けたのですが、それまでは私も発達障害に関する知識がなく、本当に苦悩の多い子育てでした。

例えば、息子を連れてスーパーへ買い物に行った際、欲しいものが買ってもらえなかったり、目当ての商品が売っていなかったりすると、その場でひっくり返って泣き叫んでしまうことがありました。周りの方からは冷たい視線で見られたり、「うるさい、黙らせろ」と強く言われたり、親の躾が悪いと批判されたりすることが日常茶飯事で……。そういった子育てを7年ほど続けました。小学校に入学してからは、息子の特性がより顕著になり、最初の2ヶ月間は本当に大変でした。

その時、学校の保健室の先生が「もしかしたら発達障害かもしれない」と可能性を示唆してくださり、診断に至ったという経緯があります。

当時は情報も少なく、大変なご苦労があったのですね。

そうですね。常に、謝罪用の菓子折りを「常備菓子折り」として家に置いていました。日持ちのするものを選んで。息子が生まれてから、本当に謝罪ばかりの日々でした。夕方になると学校から電話がかかってきて、また何か問題を起こしたのではないかとクレームにおびえる毎日で、電話の音を聞くのも怖くなった時期もありました。診断されるまでは発達障害の知識がなかったので、毎日息子を「怒る」「叱る」という日々でしたね。

活動の原点。そしてカームダウン・クールダウンへの思い

視察中の橋口さん

視察中の橋口氏

そこから、橋口さんご自身が活動を始められるようになったきっかけは何だったのでしょうか。

実は、発達障害と診断される前に親子心中未遂をした経験があるんです。息子の行動が理解できず、彼の人間性の問題なのかと思い詰めてしまって……。息子を山に捨てに行きました。周囲からは母親失格、人間失格と言われ続け、「この子を産んでしまったことが何よりも罪なのではないか」とまで思い詰めていました。

それでも捨てきれず、追い詰められて息子の首に手をかけてしまったのですが、その時息子が「お母さんにつらい思いをさせてごめんね」と言ったんです。その一言で我に返って踏みとどめることができました。あの時の情景、あの時の息子の言葉。一生忘れることはないです。

もし、あの当時に今あるようなサポートや、例えばカームダウン・クールダウンのような場所があったなら、親子共々もっと過ごしやすかったはずだという思いが強くあります。

ちなみに、息子は今30歳になり、2つの会社の役員を務めているんですよ。私の会社の取締役もしてくれていて、自分自身の特性を理解し、それを強みにして生きています。もちろん苦手な部分もありますが、そこは支えてくれる仲間たちに頼りながら頑張っています。

壮絶なご経験があったのですね。そこから学び、提言をされる側へと変わっていかれたのですね。

はい。AD/HDの診断を受け、その後、アスペルガー症候群とLD(学習障害)の特性もあることが分かりました。当時は静岡に住んでいたのですが、アメリカから発達障害の専門家である博士が東京に来日すると聞けば、新幹線に乗って講演を聞きに行ったりもしました。とにかく情報が少なかったので、必死で勉強しましたね。

親子心中未遂の経験や、発達障害を知らずに息子を追い詰めてしまったことへの後悔から、「知識があれば、情報があれば、母親が子どもを傷つけずに済むはずだ」「私たちのような親子をこれ以上増やしてはいけない」という強い思いで、当時住んでいた市内で「AD/HDの理解を深める会」を立ち上げました。

しかし、当時は本当に発達障害への理解がなく、周囲からは「本人の人間性の問題だ」と思われたり、地域の社会福祉を援助する専門家ですら 詳しく理解していなかったりする状況で、一筋縄ではいきませんでした。一番力になってほしい人たちの理解のなさに打ちのめされることもありましたが、それでも「同じことで苦しんでいる親は必ずいるはずだ」と信じて活動を続けました。

当時暮らしていた静岡で、親の会も作ったんですよ。主治医の先生が同じ悩みを持つ親たちが集まり、静岡市内で2ヶ月に1回、ランチビュッフェをしながらひたすら語り合うんです。これが24年前のことで親の会の原点となりました。この活動は、当時の私にとって本当に生きる支えでした。

小学校のママ友はほとんどいなかったんです。直面している状況がそれぞれ違いがあるので、周りのママたちに息子のことを話しても、なかなか理解してもらえないんですよね。それは視点を換えると、我が子が問題児だと思われているような感覚でもありました。でもね、たった5人で集まる親の会では、言葉が通じるんです。「そうだよね!」「私たちはこんなことで困っているんだよね!」って共感し合える。本当に貴重な場所で、「こうしたらいいんじゃないか」という情報をたくさんシェアしたりもしました。

今でこそカームダウン・クールダウンと言われますが、当時はそういった場所もなく、例えば自動販売機の隅っこなどに息子を座らせて、私が壁になって立って、少しでも落ち着ける場所を作ろうと必死だったんですよ。

活動の広がりと、国への提言

親の会での活動が、今ではさらに大きな活動に広がっていますよね。きっかけはあったのでしょうか。

親の会の活動が変わる大きなきっかけがありました。当時、静岡の病院にあった「児童精神科」が廃止されてしまうという話が持ち上がったんです。その科がなくなってしまうと、私たち親子は本当に困ってしまいます。そこで、メンバー5人で正式に親の会を立ち上げて署名運動を行い、静岡県に提出しました。その結果、静岡県東部に医師もスタッフも変わらず、行政の設置機関として児童精神科が継続されることになったんですよ。

その後、「静岡Wish」という名称に改めてさまざまな活動を始め、講演会なども開くようになりました。

夫の転勤で神奈川県に移ってからは、首都圏の活発な動きの中で、全国組織のNPO法人に携わらせていただいたり、全国の発達障害関連団体を取りまとめる団体の副理事長や事務局長を務めさせていただいたりする機会を得ました。そうした活動を通じて、国の委員会や厚生労働省の委員として、ユニバーサルデザインやバリアフリーに関する提言を行うようにもなりました。特に、国土交通省のバリアフリーに関する委員になったことは、大きな転機でしたね。

国の施策に関わる中で、どのような課題意識をお持ちになったのでしょうか。

バリアフリー法というものがありますが、従来のバリアフリーというと、どうしてもハード面、例えば階段があればスロープを設置するといった、「無いものを足していく」という後追いでの対処が中心でした。また、見た目にわかりやすい身体障害のある方への配慮に特化されてきたという側面も否めません。
しかし、日本が障害者権利条約に批准し、東京2020オリンピック・パラリンピックを契機に障害は社会の側が作り出しているという「社会モデル」の理解が進む中で、ハードとソフトが一体となった取り組み、そして「環境調整」の重要性が認識されるようになってきました。見た目にわかりづらい困難を抱える方々にも焦点を当てるという、国全体の大きな動きが出てきたのです。

私はずっと、「発達障害において最初に必要なことは医療よりも環境調整だ」と訴え続けてきました。ようやく私たちの声に時代が追いついてきたというか、発達障害に限らず、「社会モデル」の考え方に基づいて、多様な人やニーズに応えられるようにあらかじめ環境を調整しておくユニバーサルデザインの考え方が浸透してきたと感じています。だからこそ、今こそ、私たちが本当に欲しかったものを声に出して実現していくタイミングが来たと。その一つが、カームダウン・クールダウンだったのです。

民間では、成田国際空港が日本で初めてカームダウン・クールダウンスペースを設置しました。東京2020オリンピック・パラリンピックを受け入れるにあたり、世界最高の空港を目指すという国の指針の中での取り組みでした。新国立競技場にも携わらせていただき、そうした経験を経て、今のユニバーサルデザインコンサルタントという立場に至っています。

ただ、国の機関に関わらせていただく中で感じたのは、障害の中にもヒエラルキーのようなものがあり、見た目にわかりやすい身体障害に比べて、見た目にわかりづらい発達障害への理解はまだまだ低いということです。それでも、息子にしてしまったことへの後悔や、親の会で出会った多くの親たちの苦しみを知っているからこそ、私はその理解啓発の活動者の一人として、ここで諦めてはいけない、その役割を担わせていただいているんだという思いで活動を続けてきました。

どんなに相手の懐が堅くても、「1ミリでも隙間」があればそこに入り込んでいく。自分のことを伝えたいなら、まずは相手の話を徹底的に聞く。一方で、発達障害というマイノリティの専門家を会議体に入れてもらえるだけでも感謝しかない、という気持ちもありました。だって、門前払いの時代があまりにも長かったですから。それでも、やはり既存の人間関係の中で、新しい意見を言うのは難しいと感じることも多々ありました。だからこそ、大切なことは何度でも言い続ける、ということを今でも徹底しています。

万博を機に、カームダウン・クールダウンの意義を世界へ

検討委員会メンバーと記念写真

検討委員会メンバーと

橋口さんの熱意と行動力には本当に頭が下がります。今回のYogiboさんとの万博でのカームダウン・クールダウンルーム設置の進め方について、どんなことを感じられましたか?

Yogiboさんが設置するカームダウン・クールダウンルームは、インクルーシブデザインの考え方を含め、非常に素晴らしい進め方だったと感じています。ハード面を作る方々、ファシリテーターの方、設置するYogiboさん、そして様々な知見を持つ有識者が、設計図ありきではなく、ゼロの状態から同じテーブルについて話し合う。まさに上流から下流まで、インクルーシブデザインの視点でプロジェクトを進めていくというやり方でした。これは民間企業の好事例として、ぜひ発信していってほしいですね。

インクルーシブデザインの観点で議論を進めると、必ずコンフリクト(意見の衝突)が生じます。「こちらを立てればあちらが立たず」という状況は避けられません。しかし、今回の会議では、そうしたコンフリクトを恐れずに出し合える心理的安全性が担保されており、建設的な話し合いができたことが非常に良かったと思います。これがユニバーサルデザインの現場では本当に大切なことなんです。

そして、設置された「結果」ももちろん大事ですが、そこに至るまでの「プロセス」にこそ価値がある。まさにプロセスエコノミーだと感じています。これまでの多くのケースでは、図面が出来上がって、工事が始まってから、あるいは完成してから当事者の意見を聞くということが多かった。それでは、実際に使ってみると使いづらいということが起こりがちです。設置側は「障害者のためにつくりました」と言うけれど、それでは意味がない。今回のYogiboさんのカームダウン・クールダウンルームは、そのプロセス自体がレガシーとなる、画期的な取り組みだったと思います。

大阪・関西万博という大きな舞台で、このカームダウン・クールダウンルームが設置されることに、どのような期待をお持ちですか?

カームダウン・クールダウンを必要としている人々は、日本だけでなく世界中にいます。例えばイギリスのヒースロー空港にもカームダウン・クールダウンの目的を果たす「センサリールーム」が設置されているように、これは万国共通の困りごとなのです。だからこそ、大阪・関西万博に来場する世界中の人々が、もし不安な気持ちになったり、落ち着きたくなったりした時に、このカームダウン・クールダウンルームを使って、まずは万博そのものを楽しんでほしいと願っています。

そして、この万博での取り組みを通じて、カームダウン・クールダウンの存在や意義を知った海外の方々が、その考えを自国に持ち帰り、それぞれの国で同様の取り組みが広がっていくきっかけになれば、こんなに嬉しいことはありません。

最後に、橋口さんの今後の展望についてお聞かせください。

私の大きな野望としては……最近、もし「何人(なにじん)ですか?」と聞かれたら、「日本人」ではなく「地球人」と答えるようにしているんです。少し大げさかもしれませんが(笑)。

ユニバーサルデザインという観点から見ると、日本は島国であり、ほぼ単一民族で構成されているため、海外から見ると非常に独特な文化を持っています。多様性がなかなか実現しづらい国とも言えるかもしれません。しかし、一歩世界に目を向ければ、文化は繋がり、大陸も繋がっています。そうしたグローバルな視点からユニバーサルデザインを捉え直し、世界の素晴らしい取り組みを学び、それを日本に持ち帰って活かしていく。万博以降は、そういった活動をさらに本格化させていきたいと考えています。「世界を見ずして、ユニバーサルデザインは語れないな」と、最近特に強く感じています。

発達障害のあるお子さんの中には、椅子にきちんと座ることが難しい子もいます。だからこそ、Yogiboさんのような企業が、万博会場にカームダウン・クールダウンルームを作ったという事実を、ぜひ店舗などでも積極的に伝えてほしい。それが当事者にとっては、非常に重要な「情報保障」になるのです。

橋口さん、本日は貴重なお話を本当にありがとうございました。万博でのカームダウン・クールダウンルームが、多くの人々にとって安心できる場所となり、そして橋口さんの思い描く未来へと繋がっていくことを心から願っております。

 

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